M先生と一番最後に会ったのは年末で、雪が少し積もる工房の森で焚き火しながら芋を焼き、「良いお年を」と来年もまた会うつもりで普通に別れた。年が明けてから4月までは私に工房方面へ行く用事がなく、先生とは顔を合わせないまま‥今日の通夜だった。体調の悪化で緊急入院したのは3週ぐらい前で、意識不明だったらしい。
通夜の会場にはM先生の以前の教え子や仲間が大勢駆けつけていた。
通夜で見た先生の死に顔は‥安らか、
いいや、やっぱりゾッとした。棺の小さな窓から、まるで強制的に死を認識させられたようで、“どこかで死を信じきれていない気持ち”は一瞬で吹き飛び、熱を奪いながら身体の力が抜けるように感じるのだった。
とてもお世話になりながら、私のこれからや現状を安心させられないままで、今描いている絵も見せられなかったことが申し訳なかった。
M先生とひと時を過ごしたあの森の工房は、今年も眩しいほどの新緑に包まれていることだろう。
ある木は茂り、ある木は倒れ朽ち果て、それを苗床として次の種が芽を着ける。森の中で木も動物も同じように、喰っては喰われ、生まれては死んでいる。森は滅びと誕生の循環を実によく教えてくれる場所だ。そこでは私たちが生と死に抱く喜び・悲しみ・恐れという感情とは無縁の、実に淡々とした無数の生と死が繰り返されて、全体が一つとなりながら“永遠”に近づいているようでもある。
そして、人と人においては伝え継ぐ「カタチ無き想いと教え」こそが不滅のもの。
先生の旅立ちの夜に集う人達を見て「M先生が播いた種はあちこちでたくさんの芽を出し、きっといつか大きく豊かな森になるときが来る。」と予感する。
鑿(のみ)・木槌(きづち)・チェーンソーなどの道具の使い方や、アイデア創出の過程などをM先生から教わったのはもう10年以上前の懐かしい授業。木という素材に踏み込んで触れたのは、それが初めての経験で、夏の暑い日に汗を水のようにしたたらせて木の塊を彫り進めたことは、今でもしっかりと思い出せる。
そのときの鑿や木槌は最近になっても時々使うことがある大切な道具の一つ。いつでも使えるように仕立てある鑿の刃は、今も錆付いていない。
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