W−5 《大同の友達》
 
 北京から列車に揺られること7時間。車内で夜を明かした早朝、列車は石炭の煙が立ちこめる大同の街に到着した。
 大同は貴重な文化遺産である雲崗石窟があることで世界的にも有名な街だ。北京から比較的近く中国内蒙古観光への玄関口ともなるので毎年多くの観光客が大同を訪れる。
 普通座席でほとんど寝ることもできずに、眠い目を擦りながら大同の駅に到着した私の目的も雲崗石窟である。北京の観光をほぼ終えて、私は次に大同観光を目指したのであった。
 
大同にて  大同駅に到着すると駅前の空き地で屋台が出ているのが見えた。腹が減っていたのでその屋台で何かを食べようと近くまで行くと、なにやら赤ん坊ぐらいの大きな白い塊を抱きかかえて、湯気の立ち上る釜の傍に立っている人が見える。さらによく観察すると、その白い固まりを鉄板のようなヘラで小さく削ぎ取り、その削ぎ片を釜湯に向けて落とし込んでいるのであった。
 そう、これぞ刀削麺である。コックの抱きかかえる白い塊は小麦粉を練ったもので、それを引き伸ばせば麺になる。しかし刀削麺は引き伸ばさず、刃物で削ぎ落としただけの麺とも小麦粉片ともいえない麺の原型(?)を留めた一種の麺なのだ。
 その屋台で刀削麺を食べる。味はともかく、田舎くさい素朴な食べごたえと大同の雰囲気をすぐに味わうことができた。
 
 駅前屋台を後にし、大同の安宿を探すため地図を頼りに歩きだす。すると一人の中国人青年が近寄ってきて私に日本語で挨拶をしてくるのだった。片言ながらも、大同でいきなりの日本語に私は戸惑う。よくは解らないが「日本語を過去に勉強した。」というその青年は、私のこれからの行動に興味があるようだ。
 〔大同に着いて早々、厄介な奴に捕まったな…。〕と始めは思ったが、色々その青年とつたない日本語で話し合うと、どうやら彼は私に安宿を案内してくれるようなのだ。
 〔怪しいぜこの人。そんなことしておまえのメリットは一体なんだ?〕と相変わらず私も警戒心バリバリだが、案内されるままにその安宿について行くと本当に良心的な値段の宿を案内してくれた。
 部屋に案内されると、青年から大同の観光ポイントとそのルートについての教えを受けるのだが結局のところ「私の友達のタクシーを使えば安いから、そうしなさい。」ということなのだ。おそらく青年とタクシー運転手の友人とで金儲けしているのであろう。タクシーなど私にとっては高額な値段で味気もなくて、御免こうむりたい乗り物である。
 
〔やっぱり厄介な人だったか…。でも安宿は見つかったし、まぁ一応感謝かな。〕
 
 「列車であまり眠れなかったので、一人で寝かせて下さい。」そう言って青年を部屋から追っ払うと、私は部屋で30分ほど休憩して大同観光に出向くのであった。(始めから真剣に寝る気はないのでした。)
 
その日は世界に名高い雲崗石窟を訪れ、大同の街を散策すると陽が暮れた。
 
 大同の街は、はっきり言って汚い。汚すぎるといえる(本当に…)。彼ら中国人にとっては公共の場はゴミ棄て場と同じなのであろうか。道路の端には生ゴミを含むゴミが散らかり、誰もが平気でゴミをポイッと棄ててゆく。だから、汚臭もするしハエも多い。
 公衆トイレなどは凄すぎるボットン便所で、まさにこの世の地獄(笑い抜き)。観光地などには大体有料のトイレがある。入り口で人が小額を徴収しているので、その人に日本円にして約5円のお金を渡せば使用が可能となるのだが、そこも汚い。〔金をとるのに汚い…とは何事だ!〕と思っていたら、金をとらない街の公衆トイレに入って有料トイレがはるかに綺麗なことが分かり、有料であることに納得した。でも、マクドナルドのトイレは美しい。中国で一番清潔なトイレはマクドナルドだろうか(しかも無料)。アメリカ資本の経営スタイルとその文化を、そのままトイレの汚い中国文化にも強引に持ち込んで来るアメリカのパワーは凄いな…と中国のトイレを観察しながら思うのだった。(しかし、店員の笑顔のサービスはまだ期待できないが…。)
 
 そして大同2日目。切り立った崖に建てられた懸空寺、崖の多い岩山の恒山を見て回ると、中国通貨の「元」が少なくなってきた。〔今日の夜、再び北京に戻るので両替は北京に戻ってからにしよう。〕と心に決めたところで有り金は40元ぐらい。(夕飯では20元ぐらい使うことが多い。)陽も少し傾いてきたので駅近くの食堂でゆっくり夕飯を食べ、街をぶらぶらして時間を潰し列車を待つことにした。
 
 大同駅の近くでバスから降りる。夕飯にするにはまだ少し時間が早いし、今日も歩き疲れていたため近くの民家の軒先に腰を降ろした。リュックサックを背中から降ろして一息つくと…、なにやらすぐ横で中国人の二人が立ち話をしている。それとなく目をやると、一人は白衣を着た女性で、どうやら医者のようだ。
 
大同の街かど
 
〔おそらく医者が患者に生活や処方について助言をしてるんだろう…。〕
 大同の街に暮らす人々の日常生活がここの大きな通りからはよく眺めることができた。
 
 道に面した商店の数々、オンボロな車や自転車、石炭を運ぶロバ、トラックから積み荷を降ろす人達、バスを待つ老人、母親に手を引かれて早足に歩く幼子…、どこへ行ってもどんな国でも人(=人間)が暮らし生活を営むことに大きな変わりは無い。日々悩み、笑い、怒り、喜ぶ…、そして抜け出せない様々なしがらみがある。それが暮らしであり、生活であり、生きることなのだ。自分を誰一人知らない土地へ来てもそれは変わらない。
 
 私はリュックの中にある立体カメラやガイドブックを整理のために一旦外に出した。立体カメラは立体写真を撮影するためのカメラで、以前に私が自作したものだ。立体カメラは2台のコンパクトカメラをレール上に貼りつけた感じで、カメラとしては一見奇妙な形態をしている。
 横にいた医者らしき中国人女性がその取り出した立体カメラに興味を抱いた様子で、私に向かい中国語で「こんにちは。それは一体なんですか?」と質問してきた(推測)。私は〔これは立体カメラです。〕と答えたいのだが「これは…」としか中国語が出てこない。
 
〔立体カメラなんてどうやって中国語で言うんだろう?えーと…、しょうがない。〕
「This is three dimension camera. (これは立体カメラです。)」
と英語で答えると、女医は少し驚いた様子でも私に充分興味ある感じで聞いてきた。
 
「Do you come from? (どこからきましたか?)」
〔お?!この人は英語が通じるのか。さすがは医者。高い教育を受けているんだな。〕
 
 日本人であること、現在学生であること…などをその家の軒先で話すと、その女医がその家の診療所らしき中へ入れと勧める。悪い感じがする人ではなく、教養ある医者という点でも信用できるので勧められるまま診療所の中に入った。中にはその女医の旦那さんもいて、お茶をご馳走になりながら英語と中国語と筆談を交えて会話をする。
 立体カメラのこと、お互いの大学での専攻のこと、私がモンゴルの友達を会いに行ったこと、女医が開いている診療所のこと、私がタイに行っていたこと、女医が英語の勉強中であること、診療所の漢方薬のことなどを様々な言語や方法を駆使して話したのだった。 そうしているうちに女医の歳離れの妹と娘が帰宅した。これでその医者の家族が全員集合した。父:チャン・リージュン(50歳)、母:ジャオ・ウェイイー(48歳)、妹:ジャオ・ダンヤン(21歳)、娘:チャン・ドンユン(14歳)という家族構成である。あとそれからメス猫が一匹とその子供だ。
 
親切な家族
 
 帰宅した妹のダンヤンと娘のドンユンと私とで日本の俳優・歌手・アニメなどの話で盛り上がっていると「今日はこの家で夕飯を食べてゆきなさい。」という誘いを母のウェイイーから受け、私はそこで夕飯をご馳走になるのであった。
 〔う、うれしい〜!なんて温かい家族なんだろう。ちょうどお金(中国元)も少なくなってたし、列車の時間まではまだまだある。それに、ここの家族は教養が高くて会話も楽しいし、見ず知らずの外国人をここまでもてなしてくれる…すばらしい人達だ。〕
 夕食時、父のリージュンがビールを持ってきて私のグラスに注いでくれるので、二人でビールを酌み交わして5本を空にした。私は持参していたけん玉を取り出してその技のいくつかを披露、中国の一般家庭料理を味わい、一家だんらんの楽しいひとときを味わうのであった。
 やがて帰りの列車の時間が近付いた。これ程にもてなしてくれた家族にお礼の意味を込めて、私は長年愛用してきたけん玉をプレゼント。その遊び方を伝授した。そして「日本に来ることがあったら、寄ってほしい。歓迎します。」と言って私の住所を書き渡し「本当にありがとう。」と礼を述べると、
 帰り際、母のウェイイーが勉強中の少しぎこちない英語で私にこう告げるのだった。
 
「You ara my friend.(あなたは、私の友達だ。)」
 
 私はその言葉に「Me too. (私もそう思っています。)」と返して握手を交わし、温かな大同の診療所をあとにする。大同駅では北京行きの列車が既に私を待っていた。
 
 大同にできた私の友達…この旅の最高に嬉しい思い出の一つを私の胸に刻み、列車は大同の田舎街をあとに闇の中を駆け抜けて行くのだった。

   

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